他に必要なものは本当にないのか、そう聞きたくなるほどの手荷物を持って、がはたけカカシの家にやってきたのはそれから一週間後の事でした。
暗部で仕事をしている者に限らず、忍びの仕事そのものが不定期なものです。カカシはその中でも特別に仕事が多い忍で、家という場所を寝床程度にしか思っていませんでした。
それはカカシ自身、しっかりと自覚していることでした。

(何を考えてたんだかね、俺は)

それを分かっていた筈なのに。と、カカシは一週間ほど前の自分を責め立てました。分かっていた筈なのに、どうしてあの娘を引き取ろうと思ったのか。
それに対する答えはきっと、カカシが一番に分かっているはずでありました。しかし、それを認めたくないという気持ちがどこかにあり、だからこそ、今は本当にあの時の考えを理解できないのです。

「もともとここは一人暮らし用の部屋だし」

ひたひた、の足音がカカシの後ろをついて回ります。
とにもかくにも、一緒に住むと決めた以上、間取りや置いてある物について教えてやらなければなりませんでした。

「誘っといてなんだけど、こんな場所しか用意できなくてね」

台所、洗面台、お風呂場、トイレ、リビングと同じ空間にあるのはカカシのベッド、そうしては最後に小さな引き戸の前に立たされていました。
一体何を用意したのか、それは間違い様もなくの為に用意されたことだけは確かでした。

「その、まぁ…一応女の子と一緒の部屋っていうのはまずいかと思ってさ」

そう申し訳なさそうに開かれた引き戸の向こうに、は大きく目を見開きました。
物置なのだろうと思っていたそこには、小さなベッドと小さな棚が詰め込んであったのです。

「どう?やっぱ狭いか」

想像以上に戸惑うのは、お礼を言うべきなのか謝るべきなのか分からなかったからです。けれど、の胸のあたりをきゅうきゅう締め付けるのは、間違い様もない、しばらく思い出すことのなかった「幸せ」でした。

「え?!」

ぽろぽろ、そのまだまだ幼い瞳から、文字通り滴が零れ落ちるのを見て、カカシはとうとう戸惑っていました。親の葬式でも涙一つ見せなかった少女。なにかとんでもない事をしてしまったかと、少しばかり焦ります。

「え、と。その、俺が任務の時は、俺のベッド使っていいし。だから、その、ごめん」

言葉を必要以上に知らないに、職業柄か上手く必要以上の言葉を飾ってやれないカカシは、どうしたらいいのか分からないのです。しかし、謝ったカカシを見上げるその瞳は、すべてを理解しているように見えました。

「ごめんなさい」

悩んだ挙句、はまずそう口にしました。

「え、な、なにが?」
「わざわざ、この場所を作って下さいました。ごめんなさい」

申し訳ないと思って、泣いたのか?カカシは、その顔を見ながら眉を顰めます。正しい言葉とは言えないものの、の言いたいことなら分かります。

(…ごめんなさい、か)

もしもが気を使ってその言葉を選んだのなら、決して間違いではありません。それでも、言われたかった言葉はもう少し違ったのだと思い、そう思った事に内心動揺していたのです。
カカシは確かに、この物置の荷物を片づけ小さなベッドと棚を後輩に作らせた時、が喜ぶ姿を想像していたのでした。
だから、それは欲しかった言葉ではないと、気が付いたのです。

「迷惑だった?」

恐らく、がそんなことをほんの僅かにも思っていないことはカカシもよく分かっていました。

「いえ、すごく、嬉しいです」

そう言ってはにかむ顔につられて、気がつかないうちにカカシ自身も口元が緩みます。思った通り喜んでくれていること、そしてまた嬉しそうにしてくれることがじんわりと伝わってきました。

「じゃあ、さ。ごめんなさいっていうのは、言わないでちょーだいよ」
「間違っていましたか?」
「…間違いとか、そーいうんじゃなくて。だから、つまり…」

他人に何かをねだる事に抵抗を感じるカカシには、ありがとうと言って欲しいなんて頼める訳もありません。

「はたけさん」
「なに?」
「ありがとうございます。とても、嬉しいです」

はとても聡い子供でした。カカシは、この時からうっすらとその性質を見つけていくのです。けれど今は、まだまだ十分にお互いがお互いを知らないままでした。

「どーいたしまして」

自然と、今までそうしてきたかのように、カカシの手はの頭を撫ぜます。されるがままに目をつむって温かい手を感じながら、はひっそりと思うのです。

(父さん、あのね)

は、自分が覚えていない昔の事を思いました。の父親がおそらく、厳しく酷い言葉をカカシに投げつけることがなければ、は今、自分の頭を撫ぜてくれるこの手を感じることは無かったと分かっていました。
病に侵される前の父の事は、少しだけ覚えているのです。厳しい人であったと、ぼんやりと思い起こすことが出来ました。

「はたけさんは」
「ん?」

頭に乗った大きな手の重さが、とても大きな安心になりました。その手のひらから伝わる温かさは、とても確かな温もりでした。今まで他人から受け取ったことのないそれに、は戸惑いながらもやはり嬉しいと感じるのです。

「とても、優しいひとです」
「うわ。それは…あんまり嬉しくない勘違いだね」

しかし、カカシには「優しさ」という言葉はあまりに綺麗すぎました。それを素直に受け取れるほど、自分は人間が出来ていないのだ。と、内心大きなため息をつきます。
人と触れ合ってこなかった、大した言葉の知識もない少女が、それを嫌味を含んで言った訳ではないという事はしっかりと頭で理解していました。けれど、理解からくる冷静さよりも先に嫌悪が立ってしまうのです。
20にも満たない少年として、それは当たり前の事でした。

「あ、…すみません」

ひっそりと下から覗きこんだカカシの表情に、は言ってしまった言葉が正しくなかったと気が付きました。

「謝るときはさ、何が悪かったのか理解してから謝るようにしよう。俺、そういう方が分かりやすくて好きだしね」
「理解」
「そ」
「それは、謝るという行為に理解が必要という事ですか?」

カカシの短い返事に、は小首を傾げるようにして見せました。カカシはその、幼い子供がするような仕草を、程の子供がするにはあまりに不釣り合いのようだと思いました。けれどそれは、その不釣り合いさも相まって、というもののようだとも思えたのです。

「まー…場合によるけど、そんな感じ。特に君はそうやって少しずつ色々知っていくといいと思うし」
「そうですか」

素直に納得するのは、の長所でもあり、短所でもありました。

「で?」
「はい?」
「俺へ謝ったけど、何が悪かったのか理解してる?」
「…いえ。すみません。何か不愉快にさせたことは解りました」

その短所ともいえるの性質を、カカシが見抜くことが出来る筈もありません。けれど、確かに。少しずつ、言葉を重ねれば重ねる程、カカシは何かを掴みとっているような気になるのです。

「うん。俺、別に君に怒ってたわけじゃないし、不愉快になったのも君のせいじゃないし。ちゃん何にも悪くないから」

だからといって、ちゃんの言葉がなければこういう気持ちになることもなかったんだけど。と、それは言わなくてもいい言葉で、カカシは上手く口を閉じておきました。

「難しいです」
「え?何が」

けれど未だに難しい顔を続けるは、カカシに問いかけるように言いました。その言葉の意味するところを汲み取れるはずもなく、カカシは短く問い返します。

「私は、私と会話をしてくださるはたけさんへ向ける言葉を、優しい、しか知りません。どういう言葉ならあなたを喜ばせることが出来るでしょうか?」
「あ、…あー。そ、ういうこと」

「別に、喜ばそうとかそういうことはいちいち考えなくていいよ。俺も、そういうのはあまり考えない。教えることじゃないと思うし、それこそ時間をかけて理解することだ」

カカシが今まで理解してきたものも、理解出来ずに取りこぼしてきたものも、そのほとんどが今までをかけて理解してきたものでした。カカシは、相手の気持ちを汲み取るという事の、途方もない時間をかける理由も、そうして何かを得るという事の意味も、よく理解できたのです。
そんなカカシの思いを、当然知るはずもないは、やはり半分ほども理解できなかった様子で曖昧に頷いて見せました。そして、ぽつり、カカシにやっと聞こえるくらいの声で付け足します。

「部屋を用意してくださいました。とても、胸が苦しかったです。それに頭を撫ぜて下さいました。それも、胸が苦しいです。これが喜びだという事は知っています。それを下さる人は優しいのだと教わりました。けれど、あなたはあまりその言葉を好きではない様です」
「うわー。すごいね…俺、そういう風に褒められたのは初めて」
「すごいですか?」
「かなり。威力あったよ、今のは」

それから、カカシはあの時と同じ感覚を思い出しました。それは、あの夜。降り積もった雪が静けさを、そしてどこか恐ろしく感じる程の空洞を作っていた家の中で。
凛とたたずむを目にした時の、その感覚でした。

「今なんとなく、分かった」
「何がですか?」
「君をあずかろうと思った俺の気持ち」

幼心で忍になろうと決めたのは、もう覚えてはいないにせよ、間違いなく父の姿への憧れがあったと言いきれました。その憧れであった父が死に、頑なで馬鹿だった糞餓鬼に素晴らしい仲間ができ、そしてその仲間も師も失い、その糞餓鬼は今のうのうとここで生きて居るのだ、と。
なぜ自分だったのか、失うものこそ何もなかった自分こそ失われるべきではなかったのか。しかし、そうやって自身の価値を下げることは、今ある自分を守ってくれた友への価値も下げることになるのではないか。けれど、だから、それなら。でも。
暗部という、裏で木の葉の平和を支える忍になってなお、カカシは自身ですらくだらないと思う程の自問自答を繰り返していました。恐らく答えなどないそれに、何度気持ちを振り回されたか、数えることも出来ない程でした。

「気持ち、ですか」
「そ」

回りまわって、ぐるぐるに巻き取られて、固い糸巻のようになっていた頭の中。けれど、目の前の少女は違う。自分が父親を亡くしたのは、確か少女よりも少し幼い時だったかもしれないが、自分はあんな風に静かではなかったように思う。
カカシは少女の目をみつめ、父親のお骨を目の前にしていた時と全く変わらないその瞳を、その中にいる自分を覗き込んでいました。

「少なくとも、同情とかじゃないから。俺って、そんなにイイヒトじゃないしね」

まるで、自分とは真逆の、一本の張りつめた糸のような。カカシには、あの時の少女の姿がそう見えていました。

「大丈夫です」

カカシが見つめていることに少しの物怖じもせず、はそう言いました。

「ん?」

一体何のことなのか、少しばかり散漫させていた意識のせいでカカシはその言葉の意味を掴みきれなかったのです。

「私には、あなたがいてくれることで十分です」

そこにどんな理由があろうと、それがどんなに自分にとって不利益なことであろうと、にはちっとも問題ではありませんでした。カカシがいてくれるだけで、どこか安心している心があったのです。はそれを他では補えない程の大事なもののように感じているのした。

「…そーそー。そーゆーところがね」

とにかく、御託は抜きにして。と、カカシは内心苦笑します。
ごちゃごちゃ考えて理屈をつけるよりも、の持つその純真さに心底魅せられているのでした。










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